m_0092のブログ

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私のからだは、私のもの。

※この記事はいちど公開した後苦情があり、一部削除・編集したものです。

 

 ここ数日、女体持ちにはしんどいニュースが多い。

  • 都議会の塩村議員へ向けた、「結婚しないのか」「産めないのか」等の性差別的なヤジ。
  • 明大テニスサークルの飲み会で、女子が集団昏倒し、薬物混入・強姦未遂が疑われる事件。
  • 安倍総理の「女性活用」「sine!」合計特殊出生率の数値目標などなど……。

 こういうニュースがあるたびに、私は自分のからだ:すなわちXX染色体と、女性器と、子宮と、乳房があるからだの持つ社会的な意味、自分のからだがどう見られているかを意識せざるを得ない。

 

 私には、性嫌悪がある。だから、セックスも苦手だ。することもあるけど。エロい目線で私のからだを消費されることにとても敏感で、いつもいつもエロをどうやって無効化するか、ということばかり考えている(理想はエロくないふれあいです)

 そして、自分の乳房がとてもとても嫌いだ。第二次性徴が起こり、自分の胸が膨らみ始めたとき、なにかとても大きなものを失った気がした。女らしい格好が苦手で、いかにメンズ服を着こなすか、みたいなことを考えている。しかし、私は「男になりたい」とは思わない。私にはFtM的な欲望はない。

 

 私の性嫌悪・身体嫌悪は、おそらく「女体に纏わされる性的ファンタジー」嫌悪なのだと思う(あくまでも「と思う」と言うレベル。確証はない)。なかでも乳房は、女体の性的ファンタジーで非常に象徴的な身体の部位だから、どうしてもゆるせない。毎朝毎晩、胸が引っ込んで平らになってくれないかと願っている。

 私が望もうと望まなかろうと、私の意志とは関係なく、私のからだは「女」と位置付けられてしまう。私のからだは、「女」以前に、私のからだなのに。ただの肉体なのに。

 

 私は「自分のからだには、ただの肉体であるという以上に何の意味もない。エロとか関係なく、ただの肉だ。どんな部位にも本来性的な意味はない。からだはからだでしかない。私のからだの一部が膨らんでいようが、関係ない」と自分に言い聞かせることで、やっと自分のからだを受け入れることができる。そう思うことでしか、自分のからだを好きにはなれない。

 なので、私はよく自分の胸を指して

「ただの肉だよ」

 と言う(それは、私にとってとても大切なことで、自分のからだへのプライドを取り戻す、決意表明みたいなものだ)

 そうやって、私は私のからだの性的な意味を無効化して、やっとの思いで自分のからだを受け入れようとしている。けれど、そんな私の葛藤は周りの人間にとっては、知ったことではないのだろう。周りから見ると、私は依然として「女」だし、すなわち性的な文脈に乗せられ、性的に評価・価値づけられてしまう。あるいは、私のからだは私のものだとも思ってない人がいる。

 たとえば、相手はほめているつもりでも「この胸がいいんだよー」とか言われてしまうと、私のからだへの性的な意味づけを強化して、性的な意味の文脈で私の胸を「評価」をされているようで、絶望的な気持ちになる。

 それは、私のからだの主体性、私のからだの肯定的な文脈を全否定するような、私にとって非常にショッキングな出来事だ。私が自分を肯定するために私のからだに付与した「性的な意味などないただの肉」という意味を否定して、周りから見たエロ文脈のなかでの「性的にとても良い」という意味を優先されるということで、私自身の肉体に対する主体性・尊厳をないがしろにされるようなことだと思う。

 

 私は、自分の性嫌悪の感覚について、うまく、整理して話すことができない。なぜなら、「感覚」はわかりやすく、整理できるような、論理に則ったものじゃない。「感覚」に理屈はないし、コントロールできるものでもない。「感覚」は直観でしか伝わらないものだからだ。

 自分の性嫌悪・身体嫌悪について、真正面から、まともに向き合って、整理しようとすると、動悸がして、息ができなくなる。

 だから、わかりやすく、論理に則って、どこがいやか、相手が「納得」できるように、反論や拒否を伝えることができない。

 何人かの人から、何度も嫌だと言ってあるのに私の気持ちを無視して胸を勝手に触られたり、勝手に私の胸を性的に価値づけられたりしたことがあるけれど、きちんと言っても私が本気で嫌がっていることがうまく伝わったことはほとんどなかった。ほとんどの人は、何が悪いのかもわからない様子だった。繰り返されたこともあった。

 

 うまく説明できないということは、根本的に不利だ。うまく説明できないということは、もうそれだけで不正義にされてしまう。

 根拠が明確でない、筋が通ってない、「納得」できない、わからない、そういうことがあると相手は私が何を問題としているかわからないばかりか(つまり問題が今後も改善されないばかりか)、多くの場合相手は私の感覚を受け入れることができないからだ。そうなると、まともなレスポンスは返ってこない。対話は不可能だ。

 

 じゃあ、何を言っても「納得」しない、「わからない」人に、私の「感覚」を伝えるのは、無駄だと思われそうだ。でもそれは違う。「わかって」もらえなくても、その後問題が改善しなくても、言う意味はきちんとある。私の「感覚」を表明するのは、とても大事なことだ。

 何か嫌なことがあったとき、何も言わない、不快を表明しないでコトを穏便に済ませようとすると、それは暗黙の内に状況を追認し肯定したことになってしまう。それは絶対にだめだ。私の心をないがしろにする行為だ。

 たとえうまく説明できなくても、「納得」なんぞしてもらわなくても、私の「感覚」がなかったことになるわけではない。私の「感覚」を私が無視すると、私の心が死ぬ。

 だから、私は私という存在をかけて「うまく言えないけど嫌だ」と言うことを、やめることができない。

 何人たりとも私のからだに勝手な意味づけをすることは許さない。「勝手な意味づけ」をわかりやすく説明したりできないし、わかりやすく教えたりしない。

  私のからだは私のものだ。私は、女以前に私という生き物だ。

 それがわからない人には、付き合いきれない。

 わかりあえないということはすごく悲しいことだと思うよ。

 それでも、言うことは大切。

 

 

追記

 塩村議員へセクハラ野次を飛ばしたと名乗り出た鈴木議員も、おそらく感覚的に「わかって」ないのだろうと思う。それは謝罪会見の「結婚していただきたいという気持ちから発言した」というセクハラの上塗りのような言葉からも明らかだ。わからない人とは、わかりあえないのだ。言葉を尽くしたところで、本質を理解させることなんてできない。できるのは、「それはNGだ」と不快を表明することだけだと思う。それなのに何度も「ほんとにやめて」と言っているにもかかわらず、繰り返されたらそれはもう、ほんとに絶望だよ。